給与明細の「あれ?」を言える職場ですか
― 賃金不払いの数字から考える、声を上げやすい職場づくり ―
給料日の朝、給与明細を見ていて、ふと手が止まる。
「あれ? この前残業した分は、ちゃんと入っているのかな」
そんな経験をしたことがある方もいるのではないでしょうか。
確認すれば済むことなのかもしれません。けれど、お金のことは、案外言い出しにくいものです。
「自分の勘違いだったら恥ずかしい」「細かいことを言う人だと思われたくない」「会社との関係が悪くなったら困る」
そう考えているうちに、そのままにしてしまう。
賃金不払いの問題を考えるとき、私は、この「言い出しにくさ」を見落としてはいけないと思っています。
賃金不払事案は年間22,605件
厚生労働省が公表した「賃金不払が疑われる事業場に対する監督指導結果(令和7年)」によると、令和7年中に全国の労働基準監督署が取り扱った賃金不払事案は22,605件でした。
令和5年は21,349件
令和6年は22,354件
令和7年は22,605件。 件数は3年続けて増えています。
ただし、ここは少し丁寧に見ておく必要があります。
令和7年について見ると、事案件数は前年より251件増えていますが、対象となった労働者数は173,016人で前年より12,181人減少し、不払金額も128億5,782万円で前年より43億5,331万円減少しています。
ですから、この数字から単純に「賃金不払いの被害がどんどん大きくなっている」と読むのは正確ではありません。
増えているのは、全国の労働基準監督署が取り扱った「賃金不払事案の件数」です。
数字は、大きく見せるためのものではありません。できるだけ正確に読むことが大切だと思っています。
監督署の指導後に支払いが行われた事案は96.1%
もう一つ、興味深い数字があります。22,605件のうち、労働基準監督署の指導によって使用者が賃金を支払い、令和7年中に解決されたものは21,731件。件数ベースでは96.1%です。
ただし、この数字にも注意が必要です。厚生労働省の資料では、「不払賃金が一部のみ支払われたもの」も、この中に含まれています。ですから、「声を上げれば96%は全額支払われる」という意味ではありません。
それでも、監督指導を受けた後、多くの事案で使用者による支払いが行われていることは分かります。
そして私は、この数字を見るほど、その手前のことが気になります。
そもそも「おかしい」と言えなかった人は、どうなるのでしょう。
給与明細を見て違和感を持ったけれど、何も言わなかった人
退職するからと諦めた人
不払いになっていること自体に気づいていなかった人。
そうした人たちは、この22,605件という数字からは見えてきません。
賃金のことは、なぜ言い出しにくいのでしょうか
賃金は、毎日の生活そのものに直結しています。
家賃や住宅ローン、食費、子どもの教育費。同時に、「自分の働きがきちんと扱われているか」という感覚にもつながっています。
だからこそ、「この給与、間違っていませんか」という一言が、思っている以上に言いにくいのだと思います。
もちろん、労働基準法では、賃金は原則として全額を支払わなければならないと定められています。会社としては、正しく支払うことが大前提です。ただ、実務の現場では、計算ミスや設定ミス、勤怠の集計漏れなどによって、本来支払うべき賃金と実際の支給額に差が生じることがあります。
大切なのは、間違いを起こさない仕組みを整えること。
そして同じくらい大切なのが、社員が「あれ?」と思ったときに、安心して確認できることです。
会社側も、「教えてくれてありがとう。確認します」と言える。
私は、そんな関係であってほしいと思います。
本当に怖いのは、誰も何も言わなくなること
以前、私は「意見がぶつかる職場よりも、誰も何も言わなくなった職場のほうが怖いことがある」と書きました。
給与の問題も同じだと思います。
社員が給与明細を見て違和感を持っても、「言っても仕方ない」「面倒な人だと思われるだけ」「どうせ変わらない」と黙るようになったとき。そこには、給与計算の問題だけではなく、会社と社員との信頼関係の問題が生まれています。
逆に言えば、「ちょっと確認してもいいですか」という一言を普通に言える職場は、それだけで一つの強さを持っています。
AIで数字が見える時代だからこそ
今はAIを使えば、統計や法律、制度について、短時間で大量の情報を得られるようになりました。私自身、その恩恵を大きく感じています。
けれど、AIが見つけてくれる数字も、もともとは記録された情報です。何らかの形で表に出たもの。記録されたもの。集計されたもの。
その手前にある、「おかしい気がするけれど、言えない」という一人まで、数字が教えてくれるわけではありません。
だから私は、数字を見るとき、「何件あったのか」だけではなく、「この数字に入っていない人はいないだろうか」という視点も持っていたいと思っています。
給与計算を正しく行うこと。
社員からの疑問にきちんと答えられること。
そして、「あれ?」を安心して口にできる会社であること。
どれも、会社と社員との信頼を守るために大切なことです。
数字や制度を確認することは、AIがどんどん得意になっていくでしょう。
でも、その数字の向こう側にいる一人を想像すること。そして、その人が声を上げやすい職場をつくること。そこは、これからも人が大切にしていくところなのだと思います。