賃金と健康 ― 経営者が今こそ考えるべき2つの柱
経営者の皆様、少し想像してみてください。あなたが大切に育ててきた会社の社員が、「お金はもらえているが、心も体も疲れて働いている」と感じていたら。それを放っておくことが、いつか大きな歪(ひずみ)を生み出すだろう、ということを。
日本では、いま賃金と健康をめぐる風景がじわじわ変わっています。それは単なる社会のトレンドではなく、「企業の生き残り」に関わる問題です。
1.「最低賃金」が今、どうなっているか
まず数字から。これを知っておかないと、経営計画も採用競争も立ち行かなくなります。
令和7年度(2025年度)の地域別最低賃金の答申額で、全国の加重平均が 1,121円に上がりました。前年から 66円アップとなっています。
また、47都道府県すべてで最低賃金が 時給1,000円を超えるようになったのは、今回が初めて。変更は 2025年10月1日以降、各都道府県、順次効力を持ちます。
この変化はもう他人事ではないのです。「最低賃金ギリギリで採用している」「パート・アルバイトの賃金を今のままで済ませられる」という考え方が通用しなくなっています。
2.「健康経営度調査」で問われていること
賃金の話と一緒に考えたいのが、社員の健康です。ただ“病気にならないように"だけでなく、「どれだけ働きやすい環境を作れているか」がこれから大きな差になります。
経済産業省が実施している「健康経営度調査」では、企業が従業員の健康増進の取り組みをどのくらいやっているか、その結果どうなっているか、継続的にチェックする項目が設けられています。
経済産業省『令和7年度健康経営度調査』主な評価項目は5つ。①経営理念・方針、②組織体制、③制度・施策の実際、④評価・改善(どれだけ効果を見て直しているか)、⑤法令遵守・リスクマネジメント。
また今年、調査票の内容も少し改まって、制度だけでなく「実行しているか」「効果が出ているか」の見える化をより重視する方向に動いています。
つまり、「健康への配慮」はこれから義務に近づく評価軸になっていく、ということです。
3.賃金アップだけでは済まない、その理由
賃金を上げることは正しい方向です。けれど、それだけでは“必要十分"ではないことを、経営者として先に知っておいてほしい。
高い賃金 ≠ 高いモチベーション・健康
賃金が改善されても、職場の環境が過酷だったり、休みが取りにくかったり、メンタル面でのケアが無ければ、社員は疲れをため込んでしまいます。疲れはミスを生み、離職を生み、採用コストを跳ね上げます。
コストだけでなく見えないコスト
体調不良や慢性疲労、休職の増加。これらは表には出ない“隠れたコスト"です。例えば一人が病気で休むと、その穴を埋めるために他の社員に負荷がかかります。そういう連鎖が起きると、会社全体のパフォーマンスが落ちます。
社員の期待値が上がっている
今の求職者や社員は、「お給料」「休暇の取りやすさ」「働く時間」「心の負荷」に敏感です。条件が似た会社が複数あれば、健康や働きやすさで差が付く時代です。
4.経営者として、今すぐやるべきこと
人事・労務に詳しくない方でも、これなら手を付けられる、という実践的なステップをいくつか挙げます。
ステップ1
自社の最低賃金・人件費構造を把握する
今のアルバイト・パート・社員の時給はいくらか、それを新しい最低賃金に照らしてどう影響するか、計算しておく。特に地方と都市で差がある場合は注意。
ステップ2
健康状態・労働環境を社員の声で聞く
例えば「疲れやすさ」「休みが取れているか」「残業の負荷」「メンタルのストレス」などをアンケートで聞く。現場のリアルを知ることで、対策が見えてきます。
ステップ3
賃金以外の働きやすさを整える
・休暇・有給消化のしやすさ・柔軟な働き方(シフト・時間帯など)・健康診断・ストレスチェックなどの制度を導入または充実させる・産業医・保健師との相談窓口をつくる・休職や病欠をきちんとフォローする体制を整える
ステップ4
評価と改善を回す
「やっただけ」で終わらせず、「やってどう変わったか」を定期的に見直す。数値(休職率・有給取得率・社員満足度など)を取るといい。
経営とは、数字だけを追うゲームではありません。人の暮らし、人の心、そして会社という集合体をどう育てるか。ここにこそ、持続可能な強さがあります。
「賃金を引き上げることは恩義ではない。社員が健康で働ける環境を整えることもまた、あなたの責任でありブランドである」私はそう思うのです。
賃金アップは、社員との約束。健康配慮は、信頼の証。どちらも疎かにすれば、社員の心の離れは静かに起きます。そしてそのとき、会社は知らぬ間に大切な宝、人材を失っているのです。
結び
2025年10月から順次施行される最低賃金の改定、健康経営度調査の厳格化・見える化。これらは、経営者が“これまでどおり"ではいられないことを知らせる警鐘です。
賃金と健康、どちらか一方ではなく、両方を丁寧に見つめる。その決断を、いま。そしてあなたの会社が「人に愛され、社員に誇られる企業」であり続けるために。
なぜ日本の職場は「まともに休めない」のか──ズレた“頑張り”が企業を蝕む
かつて日本人は「働き者」として世界から尊敬を集めた。だが今、その美徳が、自らの心身を蝕み、組織の活力すら奪いかねない危険因子になっているのではないか──。
パーソル総合研究所が実施した「はたらく人の休憩に関する定量調査」は、日本の職場に潜む“静かな危機"を、静かに、しかし明確に可視化した。
この調査結果は、私たちが見過ごしてきた「休憩」というテーマに、新たな光を当てている。
パーソル総合研究所「はたらく人の休憩に関する定量調査」
https://rc.persol-group.co.jp/news/202501301000.html注目すべきは、「休憩時間が長いほど、業務への集中力が高まる」という、極めてシンプルで本質的な事実だ。さらに、実際に休めていると実感している人ほど、生産性を落とすプレゼンティズム(心身不調による出勤低効率)が低い──。ここには、日本社会がずっと否定し続けてきた“当たり前"がある。
だが問題は、「休憩時間の長短」だけにとどまらない。
「誰がその休憩を許容しているか」「職場の空気が休憩を歓迎しているか」が、生産性に深く関係しているというのだ。
上司や同僚が黙認するのではなく、快く承認する職場こそが、心身を回復させる真の休息を生む。これは、単なる福利厚生の話ではない。「生産性向上の鍵」であり、「人材戦略の核心」なのだ。
そして、もう一つ私たちが直視すべき現実がある。
従業員は、自分なりに「頑張っている」と思っている。だが、その頑張りが、企業が求める方向性と必ずしも一致していないことが少なくない。
休憩も取らず、疲労を溜めながら遅くまで残る姿を「頑張っている」と錯覚していないか。
それは、真のパフォーマンスに結びついているのか──。
実は企業が求めているのは「回復し、集中し、成果を出す」働き方であるはずだ。にもかかわらず、その前提となる「質の高い休憩」の価値が、いまだに正しく理解されていない。
今回の調査では、休憩の取り方も6タイプに分類された。最も「休めている」と実感したのは、身体を動かしたり自己啓発に励む「自己投資タイプ」。同僚と交流する「会話・食事タイプ」も、生産性低下リスクが低いという。
つまり、ただ時間を与えるだけではない。「休み方の質」が、成果を左右するのだ。
企業は今こそ、従業員の“頑張り方"を問い直すべきだ。
そして、正しい方向に導くべきだ。
長く働くこと、休まず働くことが“美徳"だった時代は終わった。
今、求められているのは、「戦略的に休む力」なのだ。
頑張る方向性を、間違えてはいけない。
働き方の質、そして休み方の質が、これからの企業の競争力を決める。
『人手不足倒産』は企業社会の静かな崩壊である~構造危機の只中で、社労士が果たすべき真の役割~
2025年4月、人手不足を原因とする企業倒産は36件。東京商工リサーチの集計によれば、これは2013年以降で4月として最多。従業員退職による倒産14件、求人難10件、人件費高騰12件と、すべてが過去最多を記録した。さらに、2025年上半期だけで172件──前年同期比17.8%増。構造的な崩壊は、静かに、しかし確実に進行している。
■労働市場の『変化』ではない、『断絶』である
人が採れない。人が辞める。人件費が上がる。
それでも売上は戻らない。利益は出ない。資金は尽きる。
これは一企業の問題ではない。これは日本社会の雇用インフラの崩落である。
労働人口の減少は、統計で語るにはあまりにも深刻すぎる現実だ。地方では「求人ゼロ」の職種が増え、採用難が即『経営破綻』に直結する。こうして企業は、戦わずして市場から退場していく。
合理化を進め、RPAを導入し、テレワークを制度化しても、『人』の確保ができなければ、企業の屋台骨は支えられない。今、日本の中小企業は、“働き手"という最小にして最大の経営資源を失いかけている。
社労士が今、問われているもの
社労士は、単に法改正に対応するだけの存在ではない。
現場の課題を制度へと翻訳し、持続可能な企業モデルを描く『社会のインフラ設計者』である。
多様な働き方の導入で『人が集まる仕組み』をつくる。
人事制度と賃金設計を再構築し、『辞めない職場』をつくる。
業務設計と人材投資を連動させ、『成長する組織』をつくる。
これらを本気で実行に移すとき、社労士の知見は単なる労務の知識を超え、『企業存続の生命線』となる。
経営者であるあなたに問う。あなたの企業は『人』を守れるのか?
最後に問いたい。
企業は、採用において『人を選ぶ』ことはできる。しかし今は、逆に『人に選ばれる企業』でなければ、生き残れない時代だ。
最低賃金の上昇、退職増、採用難──これらは政策の失敗ではない。時代の流れそのものであり、避けられぬ『構造変化』である。
ならば、企業が今、向き合うべき問いはただひとつだ。
『制度を見直し、人が辞めない会社にできているか?』
『人が集まりたくなる企業文化をつくれているか?』
人がいなければ、会社は動かない。働き手を守る制度を整えることは、利益のためではない。企業が未来を持つための、最低条件である。
「働き方の多様性」は、私たちの未来をどう変えるのか
~現場で見つけた希望と課題~
今、日本の職場で静かに、しかし確実に変化が始まっている。かつて「正社員こそ安定」と信じられてきた雇用形態の常識が揺らぎ、テレワーク、副業、業務委託、そしてフリーランスと、多様な働き方が現実の選択肢として浮上している。
この変化は、働く人々にとって“自由"をもたらしたように見える。しかし、果たしてそれは本当の自由なのか。そして企業は、この“自由"にどう向き合うべきなのか。社労士として現場に身を置く私は、ここに日本社会の大きな転機を感じている。
「制度に人を合わせる」時代の終焉
私たちは長らく、「制度に人を合わせる」ことが当然だとされてきた。労働時間、勤務場所、雇用形態――すべてが企業側の枠組みによって決まり、その中に収まる人こそ“働ける人"とされてきたのだ。
しかし今や、社会の価値観は大きく変わった。働き方は「企業の都合に人を従わせるもの」ではなく、「人が自らの人生と両立しながら社会に関わる手段」として捉えられるようになってきたのである。
実際、こうした新しい発想をすでに実践に移している企業もある。
ファイザーの短時間正社員制度
世界的製薬企業であるファイザー株式会社では、「週3日、1日4時間以上」の短時間正社員制度を導入している。これは、育児や介護など、家庭の事情によりフルタイム勤務が困難な社員にもキャリアの継続を可能にする制度だ。
制度設計の根底にあるのは、「働ける時間が少ないことが能力や意欲の欠如とは無関係である」という認識である。実際、限られた時間でも高い専門性や生産性を発揮する社員は少なくない。制度と現実のギャップを埋めるこの取り組みは、多様な人材活用の成功例として注目に値する。
イオンモールの副業人材活用
また、イオンモール株式会社では、副業人材を積極的に登用し、社内の専門知識の補完や新規事業開発に活かしている。ある新規事業の立ち上げにおいては、ラーメンチェーンを複数展開した経験を持つ副業人材の知見を導入。フランチャイズ管理のノウハウを社内に取り込むことで、効率的かつ実践的な企画運営を可能にした。
これは、終身雇用型の「社内ですべて完結させる」発想から、「必要な専門性は社外から機動的に取り込む」という、まさに時代に即した変化の象徴である。
ライフネット生命の副業推奨と週3~4日勤務
さらに、ライフネット生命保険株式会社では、「副業歓迎」「週3~4日勤務の正社員」といった柔軟な制度設計により、多様な人材の活用と育成を両立させている。副業を通じた経験値の蓄積を「成長機会」として評価する文化が根付きつつあり、社員一人ひとりの視野とスキルの幅を広げている。 こうした制度が社内に新たな刺激をもたらし、企業としての競争力強化にも寄与しているのは言うまでもない。
社労士としての提言
これらの事例が示すのは、「柔軟な制度設計」が働き方の多様性を支える土台であるということだ。そしてこの土台を設計し、運用面で支えるのが私たち社会保険労務士の役割である。
副業制度の導入に際しては、労働時間管理や労災の適用範囲、情報管理など解決すべき法的
課題が多い。フリーランスとの契約についても、実質的な労務提供であれば偽装請負と見なされるリスクがある。法制度は決して万能ではないが、企業の実情に応じて、今できる最善の選択肢をともに探る――その姿勢こそ、社労士に求められる本来の専門性だと私は考える。
多様性は「戦略」である
働き方の多様性は、単なる人権配慮や福祉的発想にとどまるものではない。それは、人口減少時代を生き抜くための企業の「生存戦略」であり、人材確保の鍵でもある。
「誰もがフルタイムで、毎日9時から17時まで働ける」――そんな時代はもう終わった。だからこそ、制度を人に合わせて設計しなおす時代が来ている。多様な働き方を許容できる組織こそ、これからの日本社会における希望の灯となるのではないか。
私は、そう信じている。
社会保険労務士法人JOYは設立から1周年を迎えました!
令和7年9月6日、社会保険労務士法人JOYは、設立から1周年を迎えることができました。
この1年、多くのお客様と出会い、信頼とご縁に支えられながら、ひとつひとつの業務に真摯に取り組んでまいりました。
日々の手続きや対応こそが信頼の土台であり、その積み重ねがあってこそ、より良いご提案や仕組みづくりにつながる——私たちはそう信じています。
「社会にやさしい提案型社労士法人」として、これからも現場に寄り添いながら、確かな知識と実行力、そしてちょっとした“ひらめき"を大切に、皆さまのお役に立てる存在を目指してまいります。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
社会保険労務士法人JOY
代表社員 松村 真奈美